2014年10月22日水曜日

REAL RADIO!

本日、福島第一原発1号機のカバーの取り外し作業が始まった・・・

少し前に読んだ、マスコミにも登場している学者の本の中に

『3・11以降、テレビ局には原発に対して反対のコメントを出すタレント
 の出演を控えさせろと上からのお達しがあったらしい・・・・』

という一文があった。

『あるある、そういう事・・・ヤダヤダ』

なんて思っていたら、今日凄いラジオを耳にしました。

途中からなので、番組も喋り手も定かじゃないのですが
とにかくラジオのパーソナリティがゲストのジャーナリストに質問をしていた。
そのジャーナリストは元技術者で原発のテクノロジーにも詳しい様子。

パーソナリティが問う
『では、今回解体作業についてどう思われますか?』

ジャーナリスト(感情的ではないが、切迫感のある口調で)
『どうもこうもないでしょう。
 
 
 今だって福島の人にはかなりの濃度の放射能が毎日降りかかっているんですよ。
 それなのに解体するなんて信じられませんよ。
 
 
 牛にはね、もう白い斑点が出たり、影響が出てきてるんですよ。
 人間だって同じでしょ?
 なんで東電がこんなに早く瓦礫の処分を急いでるか判りますか?
 証拠隠滅ですよ、証拠隠滅。
 調べられたら自分達の管理体制がズサンだったのが
 
 
 バレてしまうから、早く片付けてしまいたいんですよ』

パーソナリティ
『では、どうすれば?』

ジャーナリスト
『逆にもっとちゃんとした囲いを作ってですね、それだって東電が何でやらないのかって言ったら
 数百億円かかるからですよ、人の命より金ですか?って話でしょ』

パーソナリティ
『福島の方々はどんなお気持ちで?』

ジャーナリスト
もう神だのみですよ、だって正しい情報がまったく伝えられてないんですから・・・』

こんな会話でした。
そうです。本当の事をちゃんとオープンにすればいいんです。
例えそれで大変な状況になっても、隠して更に傷を悪化させるよりはマシです。
特に原発は人の命に関わり、何世代にも渡る人の力を超えたモノなんですから

マズい事にはすぐにフタをして責任を回避し

『えっ?私、何も悪い事してないモ~ン』ってボケかまして

そんなことしてカワイイのは小さな女の子だけです。
大人が、まして大企業や、国がそんな事してちゃ気持悪い。

ゴジラが放射能吐きながら迫ってくるのに
『アレは近くでビル工事やっているから騒がしいの、心配ない、
 心配ない、WE ARE UNDERCONTROL!』

なんて言えますか?アベさん?
アッ、そうかッ!甚大なる被害の現場を目の当たりにしてから
『ゴジラが危険だなんて知らなかったモ~ン』
ってボケればいいんだ。
気持ち悪りぃよ!











2014年8月20日水曜日

Class on blog 10 『カッコつけ過ぎ』について


ワールド・カップの時にブログを書いてから、もう二ヶ月が経ちました。

その間に脚本の執筆やら、撮影やらとなんだかんだと忙しく過ごしていると

今年も、もう後半の3分の1となる訳でまさに『光陰矢の如し』です。

 

人間若いうちは時間がたくさんあると誤解しているので

『この先何をするか』を考えますが、歳を重ね『矢の如し』を実感すると

『この先何をしないか』を考えるようになります。

 

そこで今日のお題

『カッコつけ過ぎ』。

 

コレはヒグチが『この先、何をしないか』のリストに

しっかり入れている事柄です。

 

兼ねてよりヒグチは『日本人って結構みんなカッコつけ過ぎじゃない?』

って皮肉いっぱいに思っているところがあります。

 

先日、諸々ハードスケジュールの疲れで、普段見ないテレビをボーッと見ていると

某局の『SONGS』という番組で、80年代女子アイドルの特集をやっておりました。

一人は言わずと知れたS子ちゃん。

たいしてスタイルも良くないのにロングドレスを着て

髪を連獅子の様にアップに上げ、顔にはメイクばっちり、パールの塗りすぎで

キラキラ通り越して宇宙人の様になっている。

 

『この人凄いなぁ、幾つまでこれやるんだろう・・・』と

見世物としては最高に面白いS子ちゃんを拝見していました。

何が面白いかというと、もう嘘がバレてるのに本人が至って大真面目に

今だに『ぶりっ子』をし続けている所です。

その姿に、一点の曇りも己に対しての疑いも感じさせないのは大したものです。

いくら批判されようが、馬鹿にされようが『私はコレです!何が悪いの!』と

自分で責任取っているからです。

 

日本では他にはE.YAZAWAさんもそうですし、アメリカではマドンナを始め、

スターと言われる人間は殆どこのタイプ。

重要なポイントは『常に矢面に立ち、自己責任の元、行動する』という事

これはヒグチにとって『カッコつけ過ぎ』には入りません。

 

では、何が『カッコつけ過ぎ』かというと、

同じくその『SONGS』に登場したTちゃん。

K川映画で主役デビューして、今テレビではコーヒーのCFなんかをやっている。

これがまた、歌がメチャ下手クソなのにカッコつけて、昔のナンバーをクラシック

・ギターでボサノバ調にアレンジして『私、オシャレで控えめでカッコいいでしょ?』ってな感じで

お歌いになっている。こういう姿を見るとヒグチは

 

『カッコつけてんなよ、馬鹿野郎っ!歌がどベタで、声も出せないからささやく様に歌ってんだろっ!

一流のボーカリスト気取りでマイク握る前に、発声練習でもして来やがれっ!』

と喝を入れたくなるのです。

 

このタイプの芸能人が日本にはたくさん存在します。

日本にはそもそも『出る杭はうたれる』と言ったことわざに分かるように

控えめな事を良しとする文化があります。

これは決して悪い事だとは思いません。むしろ謙虚さを保つ為に必要な時もあるでしょう。

しかしTちゃんのしている事は一見控えめではありますが、

出過ぎず美味しい所だけもっていけたらカッコついてラッキー!

ってな行動にしか見えません。

 

自分の才能と実力がないのを逆手に取って

『自分に無理のない、なんとなくの雰囲気』をナチュラルと言って

やり過ごしているだけの『雰囲気歌い』。

これが日本芸能界によくいる『出過ぎないズルい輩達』。

出過ぎたら、本当の実力がバレるし、責任を取らされるから回避している。

彼女(またはズルい輩達)が愛しているのは、音楽ではなく、歌っている自分の姿と

ちやほやされ、褒められているカッコイイ自分。

気持ちの悪いナルシスト野郎達です。

 

人の好みは千差万別。それぞれ好きにやればいいのですが

この様なエセ人種が日本の歌の世界や芝居の世界の大多数になってしまうのは

ヒグチは気持ちの悪い現象だと思っています。

 

芝居におけるカッコつけすぎも、歌同様、自分の才能と実力がないのを逆手に取って

『自分に無理のない、なんとなくの雰囲気』を『ナチュラル演技』と言って

やり過ごしている『雰囲気芝居』です。

 

ヒグチが演技トレーナーとして常に注意をはらっている事の一つに、

この『雰囲気芝居』があります。

『雰囲気芝居』が何故ダメかと言うと、多くの場合、

俳優が役の感情を表現している『カッコいい自分』(見られている自分)にフォーカスがあり、

本当に役が要求するものに意識がないからです。

ヒグチはそれを『状態』をやっていると表現しています。

 

古今東西、優れた俳優達の演技を見て、

また一流と言われる俳優さん達とも共演して判った事ですが

本当にカッコイイ俳優の絶対条件は必要な時は『カッコつけないでモロ身になれる』事です。

コレが全世界共通のカッコよさ。

日本の変な『雰囲気芝居』は世界に行ったら通用しません。

 

もちろん、本当に「いい雰囲気出すなぁ」という俳優の演技はあります。

でも、「あの人、いい雰囲気だね」とか

「いい空気感だね」と言った賞賛の言葉は、人様が言ってくれる言葉であり、

俳優がそれを左右して作ろうとしたらその時点で、俳優は役から離れてしまうんです。

 

ヒグチは思います。

本当の『雰囲気芝居』がゆるされる俳優は

その人の『生き方』がすでに凄いという事じゃないでしょうか。

 

(ヒグチなんて自分の生き方に反省しきりなので、とても恐ろしくて『俺の生き様を見てくれ』とばかり

 に『雰囲気芝居』なんて出来ませんわ。)

  

冒頭で書いた某局歌番組『SONG』の最後に同じく80年代アイドルのM子ちゃんが出て来ました。

M子ちゃんは障害を持った娘さんを授かった後、

『何か娘の将来の為に』と

大学院でキャリア論を学び、現在は大学で教鞭をとっているそうです。

M子ちゃんの歌は、これまたどうしようもなくお粗末。

でも彼女は少しもカッコつけずに少々シワの増えた顔で

昔のヒット曲を恥らいながら誠実に歌っていました。

その姿をヒグチは『美しい』と感じました。

 

彼女からは、『娘を守り、育て、他が為に生きる』という

本当にカッコイイ、ステキな雰囲気を感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



2014年6月17日火曜日

『日本代表』

15日、日本代表は負けました・・・
ヒグチは取り立ててサッカーファンではありませんが、
『日本代表』の試合だけはよく観ます。

何故なら、彼らが『日本代表』そして『世界の代表』だからです。

貧しい国、富める国、世界中の物凄い人数のサッカー少年達の中から
選りすぐられ、振るいにかけられ、頂点に立っているのが彼ら。
(他のスポーツでもそうですが、サッカーは特に裾野が広い)

これはもう並大抵の事ではありません。
超人的な才能・努力は勿論のこと、『運』も味方に付けなきゃいけないし
サッカーの為に人生における多くの事を犠牲にしなければ
『代表』にはなれないでしょう。

ワールドカップは見方を変えれば、
世界中の才能と運に恵まれた奴らが
同じルールの元にどちらがより才能と運に恵まれてるかを
競う大会だと言っても過言ではありません。

世界中の選りすぐりの人間達。
神の如き高みに上がった者達による闘い・・・

サッカーゲームと言うより、
人生を賭し、神託を待っている
代表選手という神官の宗教的儀式を見ている様で
ヒグチはいつも見ていても、
楽しむというより、何故か敬虔な気持ちになります。

同じように、見ていて
無条件に敬虔な気持ちにさせてくれる
映画や演劇には、生涯数えるぐらいしか
お目に掛かっておりません。

汗をかいて、ぎりぎりのところで勝負してる選手の顔の後に
CFでカッコつけてる俳優の顔などが画面に映ると
『チャラ・・・』と思うのはヒグチだけでしょうか?

2014年6月10日火曜日

AKB総選挙・・・

滅多にTVを観ないヒグチが雨で予定が流れて、
何となくチャンネルひねったら『AKB総選挙』
『何じゃこりぁ??』って感じで暫しぼーと画面を眺める。

ブラウン管の中には、
熱を込めてファンにお礼を述べる一位の『マユユ?』
雨天、濡れるのもはばからず熱狂する何万人ものファンの群れ・・・

一体AKBの女の子達は何を努力して一位まで駆け上がるのでしょう?
歌も踊りも下手。LOOKSだってまぁ人並み(ヒグチにはそう見えます)
彼女達が努力しているのは主にファン・サービス
つまりファンに如何に媚を売ってCD買ってもらい
『投票券』で自分に投票してもらうかですよね?

日本のテレビは80年代辺りから、
素人や一般人の人が出演する番組が視聴率を取り
どんどん一般人と芸能人の差異がなくなり
好感度などという言葉が生まれ
本来、毒のある芸能人も、どんどんテレビの枠の中で
毒を抜かれ、一般人と変わりなくなり
今やFACEBOOKなど見ると『一億総芸能人気どり』
『いいね』『いいね=好感度』の花盛り

芸能人と言うのは、読んで字のごとく『芸に能力がある人』です。
その昔より、特殊な技能を有するモノは『異形』とされ
畏敬の念を抱かれたり、時に疎まれたりしながらも
『怖いモノ見たさ』で人はファンになる。
ヒグチにはそれが正当なファンの掴み方である様な気がします。
しかして、芸は二の次三の次、
ファン・サービスだけで成り立っているのがAKB現象。

言い方は悪いですが、程の良いキャバクラのねーちゃんのグランプリを
メインのテレビ局のしかもゴールデンタイムの時間に
大の大人が一緒になって戦々恐々とやってる訳ですよ全国に向かって
コレ、世界広しといえど日本固有の独自の文化?だと思います。
それもかなり極まった感じの。

昔ニューヨークから帰国した当時に田原俊彦が
『ニンジン娘』という曲をオーバーオール着ながらTVで歌っている姿を観て

『凄いな日本って素人さんが歌番組で歌うようになったんだ』と友人に言ったら

『えっ?今その子が一番人気があるアイドルだよ』って言われた時
あんぐり口を開けたのを思い出しました。

簡単、お手軽なコンビニ弁当には
酸化防止剤やら、カラメル色素から、身体に悪いものたくさん入っています。

手軽で手の届きそうなアイドル。
お金で買える選挙権(投票権)
順位を上げるための応援という狂乱な中には
何が入ってるんでしょうね?


2014年6月2日月曜日

昔のことは、思わず、語らず、考えず。

今年は過去にヒグチが書いたものが、其処此処で上演されます。
先日の『楽園の東』に続いて、今日は一昨年、SYMBIONのSTAGEコースの為に
書き下ろした『RATRUN』の舞台公演を観に行きました。

作品が、一旦自分の手を離れ、人手に渡ってしまえば
『このオモチャがお気に召した?そうですか、それはそれは、
 じゃせいぜい、楽しんで遊んでやって下さい』
というのがヒグチの基本的スタンスなので、
出来に関しても良かろうが悪かろうが、
今はもう、とやかく思わなくなりました。

何故かと言えば、今日の主題。
ヒグチの『やった事はすぐ忘れる』タチです。

本日の公演にしても『へえ~、俺、こんな事書いていたんだ・・・』ってな感じで
いたって自作に対しても淡白です。

時折、人から『何故?愛着ないの?』と問われますが
『だってもう終わった事だからね』といつもお答えしてます。

勿論、その作品の創造の過程では100%集中しますが
終わってしまえば『ハイ、それまでよ』で
すぐ『NEXT!』となります。

よく公演が終わってから公演のDVDを観たり、
俳優にしても友人などが家に遊びに来ると
すぐに自分の出た作品のDVDを見せたがる人達がいますが、
ヒグチには、まったくそういう趣味はありません。
(私実は、このタイプの人がひどく苦手で、多くの場合DVD上演が始まってから
 一時間以内にそのお宅を失礼します)

悲観的な人は未来を憂いて、過去を思いますが、
楽観的な人(ヒグチも)の基本的構えは
『昨日より今日、今日より明日の方が面白いことあるんじゃない~』ですから。

『川は流れるから川であって、留まれば池となり、やがてそれは泥沼となる』
世の中そこら中にありますよね泥沼・・・

今、とりあえず仕事的に楽しみなのは、
6月4日から始まる2NDシーズンのクラスと
MOVIEコースの人達と夏にお寺で撮影する短編映画。
それから、夏に書き下ろす予定の
依頼されている映画の脚本ですかね。
元気で先があるというのは本当にありがたい事です。

と和尚さんの閑話の様な締めになりました。
(このブログ、ウィークリーで書けるといいのですが・・・)

2014年5月26日月曜日

修行というモノ

最後にこのブログを書いてからもう9ヶ月も経ってしまいました。
当初はなるべく頻繁にと思ったものの、他に書きモノの仕事が入ってくると後回しとなり
あっという間に時は経つという感じです。

まあ、五十も半ばを迎えると、この先何をするかより、どうやって無駄なことを省いて必要な事
だけを残された時間の中で効率よくこなすかという事が命題になってきたりもします。

しかして、今日のお題の『修行』です。
最近、ヒグチは日本の思想家にして武道家、今や出版する本は必ずヒットする日本の頭脳
『内田樹』氏の思想に深く傾向して、尊敬申し上げておりますが、氏が先頃『修行論』という
本を執筆なされ拝読し、『う~ん』とまた唸った次第です。
以下本文引用

『修行というものは非合理的なものである。達成目標と、現在していることの間の意味の連関
 が、開示されないからである。「こんなことを何のためにするんですか?コレをやるとどういう風に芸が上達するんですか?」という問いに回答が与えられないのが、修行のルールである』

『修行とは、長期にわたる「意味のわからないルーティン」の反復のことである』

コレ、わかりますね。ヒグチも若い頃ニューヨークの演劇学校でエクセサイズやらされながら
「コレがなんで演技に役立つの??」ってずっと疑問でした。
やっと理解したのはプロになって仕事を始めてから。
今老体に鞭打って日々柔術の稽古に通っていても「技の反復」
コレ以外に上達の路はないと体で感じます。

考えてやっている内はまだまだダメです。
その「技」ひとつひとつが潜在意識に落ちて自動的に出てくるようでなければ
習得したとは言えないのです。
演技で言えば演者の意図や頑張りが観客に見えている様では
まだ半人前というところでしょうか・・・・

内田氏は他の本でこんな事も書いてます。
市場原理主義が横行してから、教育の場の生徒達も「消費者」となり、
「時間と金かけてるんだから何してくれるの?」という
「学び」の態度崩壊が起こっていると。

「学び」という事に関しては幾つになっても
謙虚にいたいものです。
簡単には「わからない」「出来ない」から「修行」なんです。
人に少しばかり褒められて
「やれてる」と慢心すれば成長は止まります。