2014年5月26日月曜日

修行というモノ

最後にこのブログを書いてからもう9ヶ月も経ってしまいました。
当初はなるべく頻繁にと思ったものの、他に書きモノの仕事が入ってくると後回しとなり
あっという間に時は経つという感じです。

まあ、五十も半ばを迎えると、この先何をするかより、どうやって無駄なことを省いて必要な事
だけを残された時間の中で効率よくこなすかという事が命題になってきたりもします。

しかして、今日のお題の『修行』です。
最近、ヒグチは日本の思想家にして武道家、今や出版する本は必ずヒットする日本の頭脳
『内田樹』氏の思想に深く傾向して、尊敬申し上げておりますが、氏が先頃『修行論』という
本を執筆なされ拝読し、『う~ん』とまた唸った次第です。
以下本文引用

『修行というものは非合理的なものである。達成目標と、現在していることの間の意味の連関
 が、開示されないからである。「こんなことを何のためにするんですか?コレをやるとどういう風に芸が上達するんですか?」という問いに回答が与えられないのが、修行のルールである』

『修行とは、長期にわたる「意味のわからないルーティン」の反復のことである』

コレ、わかりますね。ヒグチも若い頃ニューヨークの演劇学校でエクセサイズやらされながら
「コレがなんで演技に役立つの??」ってずっと疑問でした。
やっと理解したのはプロになって仕事を始めてから。
今老体に鞭打って日々柔術の稽古に通っていても「技の反復」
コレ以外に上達の路はないと体で感じます。

考えてやっている内はまだまだダメです。
その「技」ひとつひとつが潜在意識に落ちて自動的に出てくるようでなければ
習得したとは言えないのです。
演技で言えば演者の意図や頑張りが観客に見えている様では
まだ半人前というところでしょうか・・・・

内田氏は他の本でこんな事も書いてます。
市場原理主義が横行してから、教育の場の生徒達も「消費者」となり、
「時間と金かけてるんだから何してくれるの?」という
「学び」の態度崩壊が起こっていると。

「学び」という事に関しては幾つになっても
謙虚にいたいものです。
簡単には「わからない」「出来ない」から「修行」なんです。
人に少しばかり褒められて
「やれてる」と慢心すれば成長は止まります。

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